初代 董海川先師

董海川(約18131882)祖籍は山西省洪洞県、原籍は河北省文安県朱家務村。八卦掌創始人。幼少の頃より武術を好み、大志をいだき郷里を離れ、大江の南北を遊遍する。”武功と吐納導引、道家の内功を融合し一体化させ、更に自らの経験を加味し、独創的な掌による技撃手段を主要とした武術を考え出した。”行掌走勢、連綿不断、勢式相承。”を以て圏上に沿って走転する事を主要運動形式といている。扣走は趟泥の如く、邁歩は鋏の様に行う。勁力の剛柔相済は波の起伏の如し、沈厚連綿、内外兼修、八卦の名の通り、「易」の理論を拳理の一種としてとらえた独特の風格の拳種「八卦掌」を創始した。当時、董は北京において、北京城を警護する任にあたる粛王府の護衛の惣領となった。後に開門し武芸を教授した。主要な伝人に尹福、馬維棋、程延華、梁振圃、劉鳳春、樊志勇等がいる。

 

 二代 

 尹福 18411909)

字は徳安。後に寿鵬と号した。俗称は「痩尹」。八卦掌の重要伝人の一人。原籍は河北省冀県。幼い時より武術を嗜む。初学は少林羅漢拳、弾腿を修め、特に判官筆の術に長けていた。後に董海川先師の技量に魅了され、遂に入門し八卦掌を学んだ。

 尹氏の八卦掌は、「牛舌掌」を基本掌型とし、動作は剛猛で穿、点の技法を多用して、直勁を重んじる。その力は脆、快、冷、弾で表現される。芸が成った以後、北京朝陽門外で教拳を始め、八卦掌東城支もしくは朝陽門と呼ばれ、後の人は尹氏八卦掌と呼ぶようになった。

 董氏の後をついで、粛王府に入り八卦掌を教え、更に光緒帝の武術教師となり。後に民政部稽査の任についた。弟子に馬貴、崔振起、曹鐘昇、門宝珍らがいる。

 馬維棋(不明)北京人。

炭焼き店を営んでいたため「煤馬」と、呼ばれた。幼い時から技撃術を嗜み、後に尹福の紹介で董海川に入門、苦練3年の後にその武功は精要に至った。特に「反背棰」の技術に長けていた。しかし、縦跌術の練習時に腎嚢を痛め、医術の甲斐なく29歳で死亡

 

 程延華(18431900

字は応芳。原籍は直隷深州(現在の河北省深県)。28歳の時董海川に入門。龍形散手掌に精通する。武芸は群を抜いていて、人柄は剛正。北京花市で眼鏡店を営んでいたので「眼鏡程」と、呼ばれた。後に広く八卦掌を教授したため、門下、弟子、学生が多く武林での影響力も大きかった。掌式及び器械套路、技撃と緒方面に豊富な理論をもっていて、それを発展させ、独特の風格を有し、それを多くの人は「程氏遊身八卦連環掌」と、呼んだ。1894年に劉徳寛らと共に技芸の交流大会を開き、互いの弟子を交換教授した。その為、形意、太極、八卦の門派は一家となることができた。1900年八カ国連合軍が北京に侵入した際、程は奮起反抗し、侵略軍に抵抗、乱戦の末銃弾に倒れた。主要な弟子にはその子程有龍、程有信の他、劉斌、陽明山、姫鳳翔、周玉祥、李文彪、孫禄堂、高義盛等がいる。

 

 梁振蒲(1863~1932

字は照庭。原籍は河北省冀県。7歳の頃から秦鳳儀から弾腿、鏢掌を学ぶ。1863年北京上京し古着店を営む。故に人から「估衣梁」と、呼ばれた。当時、董海川の門下では最年少であったが、武芸を学ぶのに猛進し、尹福、程延華、李存義、劉徳寛等と終日技芸を切磋し、特に「岱手」の芸に精通した。以正撃斜、借力発勁の特徴を持つ、梁氏八卦掌を形成した。冀県四覇天の一人趙六を打ち殺した事で武林で名を轟かし、また、徳勝鏢局を開設し武林で活躍した。晩年は河北省立十四中学と束鹿女子師範学校で武術教師の任についた。多くの弟子を育て、中でも郭古民、李子鳴、李少庵が有名。

 

 樊志勇(18401922)満州族。

北京人。幼少の頃より少林拳、弾腿等を学び、後に董海川に八卦掌を学んだ。功力が厚く、その拳は三角歩、打四面、八方、穿九宮によって主に構成され、走転は補助となっている。この独特の風格は「樊氏八卦掌」と呼ばれている。樊は散打に精通し、実践を善く行い、擒拿を良く行った。また、敬虔な仏教徒だったため「佛家八卦掌」とも呼ばれている。娘の鳳蘭はその武芸をよく継いでいる。

 

 劉鳳春(18531922

字は茂。原籍は河北省琢県。幼い時は父を手伝い農業に従事。九歳から武術を始め、初めは承俊慶より迷踪拳と羅漢十八手を学んだ。1872年に北京に上京し、婦女装飾品の技術を学ぶ。後に婦女装飾品の店を開業した為、人は「翠花劉」と呼んだ。同時に程延華に八卦掌を学び、後に董海川を紹介され深造を得た。しかし、当時董は高齢のため、多くは程に学び、董の深さ、程の精髄を得ること出来た。董の死後、劉は苦練を続け、寝る間以外は皆練習に費やした。劉の招法はわずが3つの換掌と形意の崩拳のみだったが功力は厚く、技撃に優れていた。晩年は北京体育学校で八卦掌を教えた。

 

三代 

 馬貴(18531940)

字は世卿。北京人。家が木材店だった為、「木馬」と、呼ばれた。

 身体は小さく、両手を垂らすと手が膝を過ぎたと言われている。転掌式の姿勢は極めて低く、発勁は爆発的に激しかった。蟹の絵が上手く、又の名を「螃蟹馬」と呼ばれた。幼少の頃から武術を好み、膂力が大きく140斤(約70kg)の石鎖を持って演舞が出来た。18歳の時より尹福から八卦掌を学び、董海川にも指導を受けた。「腕打」(湾打)を得意とし、技撃に優れ、来た者は皆敗れた。公府、粛王府、民国初期には総統府の護衛を務め、1919年には兵学校で教えた。1928年河北省国術館の顧問に招聘された。弟子は無く、郭古民、呉俊山が親しく指導を受けた。

 

 曹鐘昇(1874~?)

字は志起。山東省武城人。幼い頃は貧しく失学し、15歳で北京に上京して学芸を学ぶが、結核を患い強身の為傳文元から八卦掌を学ぶ。数年後病は去ったが、武術はやめなかった。後に尹福に師事し深造を得る。1906年帰郷し農業に従事。1934年山東省武術比賽に参加、最優等を得る。1936年北京教拳し芸を伝えた。編著に「曹氏八卦掌譜」が有る。弟子には、張俊臣、廬景貴、賀普仁がいる。

 

 劉斌(18691930

字は昆泉。山東省塩山人。幼少の頃より程延華より八卦掌を学び、苦練する事20数年。八卦掌の深奥を得る。軽功に精通し、一生かけて武芸を教授した。弟子に王文清、王殿栄、劉興漢、劉万川等がいる。

  

 程有龍(18721925)字は海亭。原籍は直隷深州(現在の河北省深県)。程延華の長男。幼い頃より父より武芸を学び、父の死後もやめなかった。八卦門の器械に精通し、秘かに太極拳を研究する事20年、遂に太極拳の深奥まで得る。三才剣、純陽剣、六路戟に精通し、主に天津で伝えた。門徒は孫錫堃、馬徳山等多数。

 

 程有信(18971973)原籍は直隷深州(現在の河北省深県)。北京で生まれ、程延華の次男。幼年時に父が亡くなり、兄について八卦掌を学ぶ。造詣が深く、八卦掌の深奥を得た。解放後の北京三老の一人(他に郭古民、樊鳳蘭)。弟子は程徳喜、劉談鳳等、北京、天津に多くいる。

 

 郭古民(18871968

原名徳倉。原籍は河北省冀県。1902年北京に上京。同時に梁振蒲から八卦掌を学ぶ。更に、尹福、史征棟、韓福順、劉徳寛、劉鳳春、馬貴、程海亭等から指導を受ける。董海川伝来の「八卦掌三十六歌四十八法」訣と子母陰陽鴛鴦鋭、七星を得る。郭の技法は精純で、深奥に精通し、「挑掌」を得意とした。北京三老の一人。多くの弟子を育て、後に北京師範大学において武術教師の任についた。著書に「郭氏錦嚢」「八卦掌拳術集成」がある。弟子に劉介民、杜雲亭、諸葛家保、李連興等がいる。

 

 李夢瑞(18881977)

字は少庵。原籍は山東省海陽県。少年期に学徒として上京。20歳の時より梁振蒲に入門。八卦掌を学ぶ。功力は純厚で、「岱手」を得意としていた為、「鉄胳膞李四」と、呼ばれた。1948年故郷に帰り、農業に従事し、晩年は同門の徒に技芸を教授した。

 

  李子鳴(19011993)

原籍は河北省冀県。1921年より梁振蒲に八卦掌を学ぶ。河北省、北平両国術館にて、張占魁、尚雲祥、許禹生等に形意拳、太極拳を指導を受け、郭古民、李少庵らと共に切磋した。1944年革命に参加。中国共産党地下組織にて国民党との闘争を行う。建国後、北京市二商系統の工場長の任に着く。後に開門し弟子をとる。北京市武術協会顧問、市八卦掌研究会会長を歴任。著書に「梁振蒲八卦掌」「董海川転掌」「内家拳術」「武術健身術」「八卦転刀」「八卦悟通」等が有る。弟子には馬傳旭、王世通、趙大元、王桐、李功成等がいる。

 *参考文献  中国武術大辞典     馬賢達主遍

         中国武術人名辞典    人民体育出版社

        九宮八卦連環掌     呉 岳 整理

                          梁振蒲八卦掌      李子鳴著